落語家の桂歌丸さんが、7月2日に81歳で亡くなりました。
「笑点」出演卒業を期に「初代司会は談志さん、わたしの髪もフサフサでした」と番組の50年を振り返った手記を、追悼とともに掲載します。
(出典:文藝春秋2016年7月号)
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謹んで、ご挨拶を申し上げます。
わたしが司会を務めさせていただいていた番組『笑点』が、5月の放送をもちまして、めでたく50周年を迎えることと相成りました。
いまの大喜利メンバーの中で、わたしだけが第1回目から出演をさせていただいておりました。当時は新進気鋭の若手で、髪もフサフサ、ひとたび通りに出れば、群がる女性をかき分け、かき分け歩いたものでした(笑)。
50年間、しゃかりきになってやってきました。色々なことがございましたが、これだけ長く続けてこられたのは、ひとえにファンの皆様のお陰でございます。
そしてこのたび、司会の座から降りることに致しました。ここで若い方に譲らなければ、番組は長続きしない。そう考えた次第でございます。
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人気演芸番組『笑点』(日本テレビ系・毎週日曜・午後5時30分~6時)が5月、放送開始から50周年を迎えた。桂歌丸(79)が大喜利の五代目司会者を務め、メンバーには林家木久扇(78)、三遊亭好楽(69)、三遊亭小遊三(69)、三遊亭円楽(66)、春風亭昇太(56)、林家たい平(51)と、おなじみの噺家がズラリ。高視聴率を維持し続け、5月15日に放送された「50周年記念スペシャル」も、20.1%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)を記録した。
記念番組の最後に、歌丸が視聴者に向けて勇退を報告。それに先駆けて行なわれた記者会見では、引退の理由について「体力の限界。これ以上スタッフや仲間にご迷惑をかけられない」と、自らの体調によるものであると語った。
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79年の人生で、大変多くの病気を患ってきました。ヘルニア、胆のう摘出、肺気腫……。2000年、急性腹膜炎になったときは、あまりの痛さで声も出ず、意識を失ったものです。手術でお腹に穴をあけましたが、それでも番組に穴をあけることはありませんでした。
ところが10年に肺炎で入院したとき、収録をやむなくお休みすることになりました。わたしの代わりに木久ちゃんと好楽さんが司会を務めてくださったんですが、あまりにも下手で……。早く戻らないといけないなと強く思ったものでした(笑)。あのときの復帰が早かったのは、間違いなく二人のお陰です。
しばらくは痛みを押して番組に臨んでいましたが、さらにここ2~3年で、体が馬鹿にガクッときたんです。一昨年は肺疾患と帯状疱疹、昨年は腸閉塞。どちらも入院して、『笑点』も高座もお休みすることになってしまいました。
いまわたしが抱えている大きな病気はふたつ。一つは呼吸器の病気。体を動かすと息切れをしてしまうんです。それだけなら、動くことは出来るんですが、もう一つ腰の病気もあってあまり歩けない。楽屋から高座に出ていくだけで苦しいんですね。酸素を吸いながら出て行ったり、釈台や合引という腰掛けを使うこともあります。羽織を着ていると、お客さんからは座っているのが見えない。ですから、ご覧になる方は「大丈夫じゃないか」とお思いになるかもしれない。でも油断すると後ろにひっくり返ることもあるので、決して油断しちゃいけません(笑)。
引退の決め手は妻の一言実際に引き際を意識したのは昨年、病院のベッドの上でした。『笑点』を見ていたら、メンバーが代わる代わる司会をしてくれている。それを見て、はっきりと決めなければみんなに迷惑をかけてしまうと思ったんです。親しい番組のスタッフには「次を用意しておいた方がいいぞ」と、そのときに伝えました。
それで日本テレビさんに降板を申し入れました。12月末に本社に伺って、社長さんにも挨拶をしました。社長室は立派な部屋でね、止めるかなと思ったら止めねえでやんの。「来年は笑点50周年なので、なんとかそこまでは生きていてくれ」っていうぐらいでした(笑)。 かみさんには普段は相談なんかしないのですが、去年の6月、腸閉塞で入院しているときに「引退してもいいか?」って聞いたことがあります。そうしたら「いいわよ」と。「でも引退した後、お父さん何やるの?」って言うんです。確かにそう。わたしには落語以外に何も出来ません。「お父さんは落語家なんだから、声が出ないのであればしょうがないけれど、人一倍大きな声は出るんだから、寄席で落語をやればいいじゃない。それが生き甲斐になるんじゃないの」って。言われてみてハッと気がつきました。ああそうだ。別に全部やめることはないんだと。噺家だから落語は死ぬまで続けたいけれど、『笑点』は番組の仲間に迷惑をかけたくないし、みっともない降り方はしたくない。それに2016年はちょうど『笑点』が50年、わたしが噺家になって65年で、年齢も80歳になる。じゃあ、「切りもいいし、思い切って辞めてしまおう」と思ったんですね。
大喜利のメンバーに伝えたのは年明けです。「発表するまでは内緒にしておいてね」と伝えたら、みんな守ってくれて。意外と結束が固かったんだなと気づきました(笑)。「来るものが来たな。しょうがねえな」と思ったんじゃないでしょうか。
それに皆さんご承知の通り、司会の交代は初めてじゃないですから。楽さん(五代目三遊亭円楽)も体の具合が悪くてお引きになったし、その前の司会を務められていた三波伸介さんなんか急に亡くなられてしまった。そういう意味では、みんな覚悟は出来ているわけです。
降板を決めてからの約半年間、特にこれまでの数十年と変わらず番組をやってきました。わたしが辞めるというのは、あくまで作り手側の話であって、視聴者や観覧に来ていただいているお客様には関係ありません。それに出演者が陰気になっていたんじゃあ、見てくださっている方も陰気になっちゃいますから。むしろ、前よりも馬鹿に賑やかなこともあったんじゃないでしょうか。
辞めることを公にした後の、反響の大きさには驚きました。記者会見している最中に「『笑点』辞めるって?」とハワイから姪っ子が電話を掛けてきましたし、卒業してから一遍ぐらいしか会っていない学校の同級生からも連絡がありました。
もちろん、正直、寂しいですよ。わたしの噺家としての土台を作ってくれたのは、大師匠の五代目古今亭今輔であり、今の師匠の桂米丸。そして顔と名前を売ってくれたのが『笑点』なんです。二人と一つの番組がわたしの恩人。その恩人をここで捨てなきゃいけない。最後の出演となった5月22日の生放送が終わった後には、いろんな思いがこみ上げてきて、不覚にも涙腺が狂ってしまいました。
談志さんに誘われて『笑点』の放送がスタートしたのが、1966年5月15日。その前年に立川談志さんが中心となって作った番組『金曜夜席』が、衣替えをして日曜夕方に引越しをしたのが始まりでした。司会はもちろん談志さん。大喜利の初代メンバーは楽さん、林家こん平、三遊亭小円遊(当時は金遊)、春風亭梅橋(当時は柳亭小痴楽)、そしてわたしでした。
わたしはまだ桂歌丸と名乗ったばかりの二つ目。談志さんとは神田の立花演芸場で一緒になったぐらいだったんですが、「歌さん、あんたテレビに出ねえか」と誘ってくださった。それが『金曜夜席』に出るきっかけでした。最初は総合司会が談志さんで、大喜利は楽さんが司会をしていたんだけど、あまりに楽さんの仕切りが悪いもんだから、4回目ぐらいで談志さんが司会になったなんてこともありました(笑)。
『笑点』に変わるときも談志さんに「歌さん、頼むよ」って言われて出ることに。でも最初はあまり視聴者の反応は良くなかった。なんせ談志さんはブラックユーモアが好きで、きわどい回答を欲しがるんです。いまはとても放送できないような内容で、視聴率も伸びなかった。50年やってきて、番組存続の危機感を覚えたのはこのときぐらいです。
談志さんとしてもイライラが募ったんでしょう。わたしたち回答者とぶつかるようになった。それですったもんだの末に、わたしら大喜利メンバーが全員辞めたんです。
でも新しいメンバーで始めたら、どうにか二桁取っていた視聴率が、一桁に落っこちちゃったらしいんですよ。それで局の方に「戻ってきてくれないか」と打診され、69年秋に復帰しました。司会者は談志さんから、放送作家の前田武彦さんに代わっていました。ただその後も談志さんとは特にわだかまりもなく、よくお仕事をしました。談志・歌丸二人会を何度もやったものです。
前田さんは「フリートークの魔術師」とまで言われた方ですが、いかんせん噺家じゃない。だからわたしたちの洒落が通じないところがありました。こちらが投げた球を受け取ってくれなかったり、受け取っても返してくれなかったり。結局、1年後にてんぷくトリオの三波さんが三代目の司会者になられました。三波さんは落語にも造詣が深く、噺家の呼吸や間を心得ていらっしゃった。
そうしたことが視聴者の方にも伝わるのでしょう。歴代最高視聴率の40.5%(ニールセン調べ)は、三波さんが司会をされていた1973年のことでした。
番組開始10年目には、座布団10枚を貯めたご褒美に、アテネに行かせて貰いました。オリンピック発祥の地でマラソンをやるという馬鹿げた企画でしてね。オリンポスの山で採った聖火を掲げて、アテネ市内を走ったもんです。
15周年記念公演はハワイでやりました。その大喜利の収録の最中に林家三平師匠が亡くなったというニュースが入ってきたんです。そこで弟子のこん平さんはすぐに帰国。次の月には小円遊が亡くなりました。番組当初から「オバケ」「ハゲ」と罵りあい、仁義なき戦いを繰り広げたいい仲でした。長く続けていると、出演者が天国に行っちゃうことも少なくありません。
1982年には三波さんも急逝し、翌年1月から楽さんが司会者になります。このときはもう『金曜夜席』時代の楽さんではなく、こちらの投げた球をしっかりと受けて返してくれる、名司会者になっていました。
楽さんは緻密な落語をやるくせに、いい意味でいい加減な人だから、そこがまた面白かった。普通は司会者が回答者をビシッと取り仕切らなきゃいけないんだけど、わたしら回答者が「しっかりしてください!」って言うぐらい。本番中に寝ていたこともあったし、3問目までやるはずが、2問目で終わっちゃったことも3回あります。
2005年に脳梗塞で倒れてからの楽さんは、病魔と闘う日々を送っていました。あるとき「歌さん、頼む」と言われたんです。この言葉は、わたしの頭から生涯離れないでしょう。「頼む」という言葉は『笑点』だけではなく、落語界などありとあらゆるものを頼む、という意味でおっしゃったのだと思っています。それで司会を引き継がせてもらいました。
回答者は気楽なもんだ司会者として心掛けたのは、無理に変えようとしないということです。何十年も続けていると、マンネリだとか言われますが、司会者も変われば回答者も変わるし、そのたびに番組は活性化する。少しずつですが自然に変わっているのです。そこに変に手を加えようとしたら失敗する。そう考えていました。変えたのは一つだけ。回答者の挨拶の前にわたしが一言付け加えるようにしたことです。例えば地方に行けば「東京から石もて追われた皆さん」、梅雨になれば「お天気よりも湿っている皆さん」。番組の変化といえば、まぁ舞台裏の階段に手すりが付いたり、常駐の看護師さんがいるようになったとか、そういうのはありました。メンバーは全員一病息災で、ひとかたの病気を持っていますからね。
いざ司会の立場になってみると、回答者の気楽さが身に染みて分かりました。回答者のときは政治家の悪口でも何でも、ボンボン言えました。今度は好き勝手に喋る回答者をどう料理するか考えなければいけない。ただこれまで自分が回答者としてやっていて、司会に「こうして欲しい」と思っていたことをやればいいわけですから、意外と切り替えは楽でした。
大喜利のお題はその場で知らされるし、当意即妙で答えなきゃいけないので、大変なことは大変です。でもあんまり考えすぎても良くない。だいたい頭の中に最初にパッと浮かんだことが一番面白いんですよ。「うーん、なんて言ってやろうか」と考えちゃうと、面白くもなんともなくなっちゃう。司会もそう。「1問目はどこで終わろうか」とか「どのタイミングで『また来週』と言おうか」というのは気を遣いますが、パッパッパッとやるのがいいんです。
それにメンバーとも長年やっていますから、誰がどんな答えを言うかはだいたい分かる。わたしが司会者になってから新しく入ってきた昇太さんもたい平さんも、芸風はもともとよく知っていますからね。年を取っても、変わるのはせいぜいテンポが速いか遅いかの違いぐらい。木久ちゃんなんか、わたしと大して歳は変わらないから、昔と比べたらテンポはそりゃあ遅い。でも年を取ったら取ってきただけ、“間”の面白さというのが出てくるんです。
大事なのは、高座に並んだときは先輩も後輩もないということ。これは新しく入ってきた人みんなに言いました。司会者の年が上だとか、落語芸術協会の会長だとか、そんなことは関係ない。みんな同じ噺家で、司会者対回答者なんだと。わたしをネタにしたけりゃ、もちろんそれでいい。徹底的にいじっておくれと。それはみんな心得ていましたね。
50年やっても飽きない収録はほとんど同じスケジュールでやってきました。
土曜日の朝10時ごろに後楽園ホールに行って、局の方と打ち合わせをする。12時半ごろから2週分録ります。たまにスケジュールの都合で3本録るときがありますが、わたしも含めてみんな年寄りだから、そんな日は最後ヘロヘロ(笑)。演芸の収録もありますが、だいたい3時前には終わる。「あれはウケたね」「あそこで噛まなきゃねえ」なんて冗談を言い合いながら、着替えて帰宅。メンバーの中には「じゃあ一杯」という人もいますが、わたしは下戸ですし、最近はあまり食欲がないもので、そこには参加しませんでした。
50年間、飽きることはありませんでしたね。それは、舞台の上でメンバーとポンポン言葉の掛け合いをするのは、わたしにとって、もの凄く楽しい遊びみたいなものだからなんです。視聴者の方には申し訳ないですけど、ストレス解消にもなる。間やテンポが、寄席でする噺の参考になることもあります。
出来のいい回、そうでない回というのは、会場にいるお客様で決まります。洒落の分かる、陽気なお客様が多いときは、出演者もノるんです。ところが洒落の通じないお客様だと、無理して笑わせようと思うから、ツッコミがどんどん多くなってくる。すると言っている方もくたびれてきて、番組が陰気になってしまう。われわれは本当はテレビの向こうにいるお客様を考えなきゃいけないんですが、生身の人間ですからね。どうしてもその場にいるお客様を意識してしまいます。
楽屋での雰囲気も大事です。陰気な話ばっかりして高座に上がったら、陰気な芸しかできません。だから『笑点』の楽屋ではみんな冗談を言い合って、パーッと高座へ上がっていく。だから陽気な番組が出来るんです。
手前味噌で申し訳ないんですけれど、われわれ噺家でなければ出来ない番組だと思っています。昔から寄席では大喜利や謎かけ、都都逸もやっていましたしね。ただ噺家だったら全員が出来るかというと、そうではない。だからメンバーを選んだテレビ局側に、人を見る目があったってことです。50年間、人選を相談されるなんてこともありませんでした。
番組がここまで長く続いてきた理由としては、家族全員が安心して見られる、ということも大きいと思います。他のメンバーと約束をしているわけではないのですが、陰惨な事件や暗いニュースには触れないようにしています。見ていて心がすさむような番組もあるじゃないですか。子どもの耳をふさぐようなことのない番組にしたい。それはずっと心がけてきました。
失礼ですけど、最近テレビがつまらないですね。見ていて「おいおいおい」ってなりますもの。寄席の番組もなくなりましたね。1960年代の演芸ブームのときには、寄席の番組が1週間に36本もあったんですから。だから余計に、わたしたちの番組をありがたく思ってくださるんでしょう。
視聴率はやっぱり気になるものです。わたしが司会をしている間に最高視聴率40.5%まで持っていきてえなと思っていましたけど、かないませんでした。これから狙って貰いたいですね。
落語家としての“役目”わたしの原動力となっているのは、落語家という“役目”です。落語家ですもの。落語以外何をやるんです? 何もないじゃないですか。だからこれからも落語家としての責任を果たしていかなくちゃいけない。先人の師匠たちは、もの凄いものを残してくれています。今度はわたしたちの世代が残していく番です。そうすれば何十年か後に、いまの若い世代の噺家さんたちが、わたしの噺を土台にして、自分なりに変えて新たなものを生み出してくれるかもしれません。
今後は、ここ数年やらせてもらっている三遊亭円朝師匠の噺を、年に2回はやりたいですね。それに加えて、寄席で出来る噺もどんどん覚えたい。いま、噺を3本ストックしているので、しっかりと頭に入れて発表していきたいと思います。
寄席では、若い落語家さんの噺をよく聞いています。そうすると「こういうやり方もあるのか」と教わることも多いんです。「わたしだったらこうやるな。よーし、やってみよう」と、新たに意欲がわいてくる。人の噺を聞くというのは、いくつになっても勉強になりますね。
『笑点』の司会のバトンは昇太さんに渡しました。本人はずいぶんと驚いていたようですが、昇太さんには昇太さん持ち前の明るさと若さで、番組を60年、70年と続けていって欲しいと思っています。
これからも『笑点』の直前に放送される、わたしとメンバーのトーク番組『もう笑点』には出演します。恥ずかしながら「終身名誉司会」という肩書もいただきました。身を引いた以上、『笑点』には余計なことは言わないようにしようと思っています。ただ家のテレビで番組を見ていて、あんまりつまらなかったりひどかったら、文句を言ってしまうかもしれません。まぁ、決して褒めることはないでしょう(笑)。
(桂 歌丸)
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