市村は俳優の西村晃さんの付き人を経て、1973年に劇団四季のオーディションに合格。圧倒的な演技力で、同劇団の80年代を代表する看板ミュージカルスターとして活躍した後、90年に退団した。
大阪でミュージカル『モーツァルト』の千秋楽を終えて、帰京したばかりの市村は「千秋楽を終わって、袖に帰ってきたときに知りました」と驚きの表情。一昨年に舞台の稽古中に会ったのが最後。23、24年ぶりの再開だったそうで「会わせてくれたのかな」としんみりとした。「ゼロから教育してもらった。浅利さんの言ったことは全部、覚えている。怒られたことも、褒められたこともある。日本のミュージカル界を引っ張ったのは浅利さん。本当に偉大な人でした」と故人を偲んだ。
あす19日に舞台のため米・ニューヨークに旅立つが、「浅利さんが『ニューヨークでやるなら、しっかりやれよ』と言ってくれているよう」と激励と受け止めている。いろいろな訓示を受けたが、印象に残っているのは「演技は蓮の上の水玉」という言葉。「わかったのは30代の後半かな。同じことは2度とない」と話し、その言葉の真意を理解できた瞬間に「名優・市村が誕生したのでしょう」と笑わせつつ、しみじみと振り返った。
「お酒も覚えさせてもらった。24歳から41歳までお世話になった。本当に感謝してます」と話し、「考えたら16歳しか違わない。でも、僕にとっては偉大な芝居のお父さんかな…」と故人について語っていた。
「他人の時計をのぞくな」と、よく注意を受けたそう。配役などで納得がいかなくても成長速度は人それぞれという意味。「浅利さんから言われたことを、今度は僕が言ってます」と言葉を受け継いで、後進の育成に励んでいる。
同じミュージカル『イエス・キリスト=スーパースター』でデビューした鹿賀丈史と比較され、浅利さんから「鹿賀がステーキなら、お前はクレソンだ」と言われた。「当時は鹿賀丈史が正義。だいたい大きい役はあっち。でも、ステーキにクレソンはなくてはならない。太陽があって月がある。俺の芝居は月的な演技だから、お客さんがグッと来るのかも」と真意を理解しつつ「最近はミニステーキぐらいにはなったかな」と明るく追悼した。
浅利さんは慶應義塾大学文学部仏文学科在学中の1953年に、日下武史さんら10名で劇団四季を創立。以来、劇団代表・演出家として、ストレートプレイからミュージカルまで、ほぼ全作品のプロデュースや演出を手掛けてきた。
2014年に劇団代表職を退いてからは、活動の拠点を、現在の浅利演出事務所へと移し、『浅利慶太プロデュース公演』として、計12公演の演出を手掛けた。紀伊国屋演劇賞、菊池寛賞、読売演劇大賞、ドイツ連邦共和国一等功労勲章、イタリア・アッビアーティ賞、中国政府友誼賞他、国内外での受賞多数。数多くの俳優、スタッフを発掘、育成し、日本の劇場文化を大きく発展させた。
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