鹿賀は1972年に劇団四季に入団。芸名の「鹿賀丈史」の名付け親は浅利さんという。『イエス・キリスト=スーパースター』のジーザス役で主演デビューし、名を上げた。80年に退団した。
沈痛な表情で「元気だと聞いていた。急なことで驚いている」と語ると「10年ぐらいで辞めたんですけど、その後も気にかけてくれた」と回想。最後に会ったのは2000年。「銀座で食事をしていましたら、先生に久しぶりにお会いした。その年に『マクベス』をやることになっていまして『お前、マクベスやるんだって。できんのか』みたいな会話が少しあった」という。「すぐ後に、手紙をちょうだいいたしまして『この間は酒を飲んでいて、きついことも言ったけど、ごめん』と書いてあった」と最後のやり取りを明かすと、鹿賀は思わず落涙。「『ごめん』と書いてあった。劇団をやめて、ずいぶん時間も経っていましたけど、心にとめてくださってくれていたのかと思って…。そのときは感謝しました」と目からあふれるものが止まらなかった。
人柄について問われると「厳しかったです。でも、その奥に優しさがある方。魅力のある方で、だからみんなついていった。バカヤローとか、コノヤローとかはしょっちゅう言われてました」と厳しい一面を明かしながらも「怒っているのではなく、喝を入れられた。芝居を一から教えてもらった」。今でも浅利さんならどんな指導をしたのか、考えることもあるという。「1つの作品にかける情熱は、すごいパワーがあった」と偲び、「浅利先生がいなかったら、僕はいない」と言い切っていた。
劇団を辞める際も「いいじゃないか」と止められなかったそう。今かけたい言葉を問われると「長い間、ご苦労様でした」と語りかけ、「先生の生き様を見習って大事に生きていきたい」と思いを口にした。
浅利さんは慶應義塾大学文学部仏文学科在学中の1953年に、日下武史さんら10名で劇団四季を創立。以来、劇団代表・演出家として、ストレートプレイからミュージカルまで、ほぼ全作品のプロデュースや演出を手掛けてきた。
2014年に劇団代表職を退いてからは、活動の拠点を、現在の浅利演出事務所へと移し、『浅利慶太プロデュース公演』として、計12公演の演出を手掛けた。紀伊国屋演劇賞、菊池寛賞、読売演劇大賞、ドイツ連邦共和国一等功労勲章、イタリア・アッビアーティ賞、中国政府友誼賞他、国内外での受賞多数。数多くの俳優、スタッフを発掘、育成し、日本の劇場文化を大きく発展させた。
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