浅利慶太さんの訃報を受けて18日、劇団四季出身の俳優鹿賀丈史(67)が都内の所属事務所で会見を行った。

 鹿賀は72年に劇団四季入りし、翌73年に「イエス・キリスト=スーパースター」で主役として舞台デビュー。以後、退団までの約8年、劇団四季のトップスターとして活躍してきた。

 そんな鹿賀にとって浅利さんは、名付けの親であり育ての親だった。鹿賀という芸名は、金沢出身と聞いた浅利さんが付けたものだった。そのまま“加賀”ではなく、「鹿のように俊敏で澄んだ目をしていろ」との意味を込めて、“鹿”の文字を授けられた。「浅利先生がいなかったら僕はいない」と師に感謝し、「その言葉は忘れられないし、今もその気持ちは大事にしていきたいと思っています」と話した。

 劇団四季の稽古場には、常に怒号が響いていた。「バカヤロー、とかはしょっちゅう言われました。蹴飛ばしたりもされましたよ」。それでも、その裏にはしっかりと情があった。「厳しかったけれど、その奥に優しさやユーモアがあって、非常に魅力的な方だった。だからみんなついて行った。今芝居をしていても、『先生はこう言っていたな』と思い出します」という。

 訃報はこの日知った。最後に会ったのは00年、銀座の食事先でばったり遭遇した。当時「マクベス」の公演を控えていた鹿賀に、浅利さんは「できるのか?」と厳しい口調でハッパをかけてきた。数日後、届いた手紙には、「酒を飲んでいて、きついことを言ってごめん」と、謝罪の言葉がつづられていたという。「1から育てていただいて、気にかけていただいて。劇団を辞めてずいぶんたつのに見てくださっていたんだな、と、感謝の気持ちでいっぱいです」。気丈に話していた鹿賀の目から、堪えきれなくなった涙がこぼれた。

 浅利さんの功績を、「日本の演劇界を大きく変えた。ミュージカルを目指す人間を増やした。どこにいっても四季出身がいる」とたたえた。役者のみならず、優秀なスタッフを育てたのも浅利さんだった。「『長い間ご苦労さまでした』というのと、ここまでの人間たちを輩出したすばらしい力に『ありがとうございます』。四季で始まった役者人生ですから、先生の生きざまを見習って生きていきたい」。天国から見守る恩師に、これからも勇姿を見せつけていくと誓った。